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酒井田柿右衛門さかいだかきえもん

  • 酒井田柿右衛門
  • 酒井田柿右衛門とは肥前(現在の佐賀県)有田の陶工で江戸時代前期から当代15代に渡り襲名する陶工を指します。

    有田焼(伊万里焼)は朝鮮出身の陶工・李参平(りさんぺい)が陶祖と言われておりますが、その有田の地に酒井田円西とその息子・喜三右衛門が移住し陶器や白磁、染付などを製作したと言われております。酒井田喜三右衛門は朝鮮からの陶工・高原五郎七(たかはらごろしち)や東島徳右衛門に着色法を学び、呉須権兵衛の助けを得て色絵磁器(赤絵)の焼成に成功し、「柿右衛門」を名乗るようになりました。

     

    初代柿右衛門は「濁手」の素地に赤色系の上絵を焼き付ける「柿右衛門様式」を生み出すと、万治2年(1659年)にはオランダの東インド会社が柿右衛門様式に注目し、ここより伊万里の輸出産業が活発化されました。近年の伊万里焼の窯の発掘調査によりますと、いわゆる柿右衛門様式の色絵磁器は酒井田柿右衛門の歴代が製作していたのではなく、伊万里焼の陶工たちが総力を挙げて東インド会社の要求に応えた製品であることが証明されてきており、その為初代柿右衛門の作陶の具体的な事例は不明と言わざるを得ないのが現状の様です。最近の研究では柿右衛門様式の完成は1680年から1690年と考えられており、それは4代柿右衛門の時期と重なります。

     

    1660年代初期の柿右衛門様式は余白を楽しむというより鮮烈な赤絵で器を埋め尽くすといったヨーロッパ好みの構図が多く見られますが、1680年頃にもなりますと筆致も洗練され、余白を楽しむ構図も見られるようになり極めて日本風な優雅さが加わります。1688年から1704年の元禄年間には白磁染付を基調に赤地と金彩で文様を描く金襴手が流行し「元禄柿」と呼ばれるものも焼かれていました。柿右衛門様式と金襴手は輸出用伊万里の代表であり、当時ヨーロッパで流行っていたバロック趣味と合致しマイセン窯はじめヨーロッパ中で柿右衛門様式の写しが作られるようになりました。

     

     

    しかし1750年代になりますと、伊万里の輸出産業が中国・景徳鎮との価格競争に破れヨーロッパ販路を失います。ここから伊万里は国内向けの大量生産品にシフトしていき、その波は柿右衛門も例外ではありません。1700年代後半には濁手の技術が途絶えてしまう背景には伊万里の不景気があったと推察します。濁手は複数の陶石を混ぜるため収縮率の違いなどから焼成時に破損が多く、平皿なら5割、壺なら2割と言われているくらい歩留まりが悪く採算が取れずに消滅したと考えられておりますが、採算が合わないものは削らねば生き残れない景気状態だったのでしょう。

    ただ大量生産品を作る中にも柿右衛門窯の職人達の心意気と誇りを感じる丁寧な作行に心打たれます。

     

    明治期になりますと伊万里焼は藩の後ろ盾も失い低迷します。その中で最盛期の柿右衛門窯復興に情熱を傾けたのが11代柿右衛門です。1890年第三回内国勧業博覧会にて有功賞受賞、1893年にはアメリカコロンブス万国博覧会にて二等有功賞受賞するなど積極的に出品し名声を高めます。1912年片岡仁左衛門による歌舞伎「名工柿右衛門」の上演は柿右衛門窯の名が再び認識されるようにあり、11代の作る作品が世に知られるようになりました。

    11代の柿右衛門窯再興の夢を託されたのが12代柿右衛門です。12代は1680年台に完成された最盛期の柿右衛門様式の復興を目指し、1700年に書かれた『土合帳』や『赤絵之具覚』など酒井田家に伝わる書物の解読を進め当時の技術の習得に励みます。実業家・小畑秀吉と設立した柿右衛門焼合資会社において経営方針がぶつかり11代が商標登録した「角福」の銘を奪われるなど依然として経営としては不安定ではあった時代でしたが、そんな最中でも12代は柿右衛門窯再興をのため有田の泉山陶石を使用するなどの試みが見受けられました。

     

    12代そして13代柿右衛門と2代に及ぶ長年の尽力によりついに1953年(昭和28年)に濁手の復元に成功しました。

    濁手は調合による素地精製が最も重要な作業であり、その配分が先述の『土合帳』に記されていたのです。

     

    白土・6俵

    山土・3俵

    岩屋川内辻土・2俵

     

    と記された俵合わせから現在では

     

    泉山・60%

    白川・30%

    岩屋川内・10%

     

    の配合で調合されています。

    12代柿右衛門はこの時すでに75歳になっており、それは12代が亡くなる僅か10年前のことでした。

     

     

    1963年(昭和38年)に57歳で柿右衛門を襲名した13代は復元した濁手の広めるため独自の世界観の創作に挑みます。12代・13代の濁手復興の功が認められ1971年(昭和46年)に柿右衛門製陶技術保存会を設立すると同年には同保存会が重要無形文化財「柿右衛門(濁手)」の保存団体として認定されました。

    13代の死を受けて1982年(昭和57年)に14代柿右衛門が襲名します。14代は海外マーケットでの評価も高く1983年(昭和58年)アメリカ「クローズ・アップ・オブ・ジャパン・イン・サンフランシスコ」に出品しサンフランシスコ市長より名誉市民号を贈られました。14代の作行は多摩美術大学で日本画を学んだことから最も絵付に精通したものであり、歴代柿右衛門の中で最も鮮烈な赤と濁手の素地が見せるコントラストの妙にこだわりを持って作陶したと言われております。そして2001年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されます。

     

    14代は2013年に亡くなり第15代柿右衛門が当代として今現在も活躍されております。

     

     

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