江戸期刺繍
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船場(せんば)って何?古布骨董品の買取と船場(せんば)の関係
船場(せんば)とは大阪府大阪市中央区にある地域です。大阪の商業文化の中心となった土地で、古くから多くの人の往来があり、多くの商品が取引されました。
このことから、船場には多くの骨董品が集まっており、呉服屋なども多かったことから、骨董品として取引されるような古布も多く見つかる場所です。
船場の歴史や文化、人々の営み、骨董品との関係について解説いたします。
歴史やその土地の文化を知ることで、今まで見えていなかったことが明らかになることもあります。特に骨董の世界では、作品の背景を知ることはとても大切なことですので、ぜひ参考にしてください。
一般的に船場と言われているのは、北は土佐堀川から南は長堀川(現在の長堀通り)、東は東横堀川(現在の阪神高速南行線)から西は西横堀川(阪神高速北行線)まで南北2km、東西1kmの地域です。
「船場」という地名の由来は、かつてその一帯が船着き場だったことから「船場」と名付けられたという説が一般に広まっています(諸説あり)。
現在では、多くの商業施設や飲食店が軒を連ねています。
船場の始まりは、豊臣秀吉が石山本願寺跡に大坂城を築いたときにまでさかのぼります。
大阪城築城のため、その働き手が住んだ土地でもあります。
大阪城が築かれたのは、1583年から1598年にかけてと言われています。
必然的に大勢の家臣団が集まることになり、その武士たちの武器、武具、食料、生活用品が大量に必要になりました。城下町を整備することが急務となったことから、秀吉が堺や京都・伏見から商工業者を強制的に大阪城下町へ移住させたのが商人の町である船場の始まりです。
秀吉は船場を、大阪城の築城からほぼ10年あまりで商都へと作り上げました。そして秀吉配下の五奉行の一人である石田三成は、大名たちに領内で生産する米や物産を大坂に運んでくるように命じ、商品経済を本格化させ、大坂は諸国の物産の一大集散地として賑わうようになりました。
1598年に豊臣秀吉が死去、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成方の西軍が敗れ、1603年に徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を置きました。そして1615年の大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏が滅亡しました。このとき、城下町である船場も大きな被害をこうむりました。
豊臣秀吉によって栄え、大坂夏の陣で一度、焦土となった船場でしたが、江戸時代にも徳川幕府が大阪城の城下町を発展させるため、税の免除、楽市楽座の設置、関所の廃止などの優遇策を取ったことで、大きく発展しました。
この方針に沿って両替商や諸国の産物を扱う商人、漢方薬を扱う薬種問屋などの店が次々に開店し、米を始め諸国の産物はほとんど大阪に集まり、天下の台所を取り仕切る経済の中心地へと発展していったのです。
また、船場は薬の町としても知られています。
江戸時代初めに堺の豪商・小西吉右衛門が道修町に薬種問屋を開いたのが薬の町の始まりとされており、その後、中国から輸入される唐薬種(とうやくしゅ)を商う商人が道修町へ集まるようになったことで、薬の町として発展していきました。
船場で働く人々
船場にはどのような人が住んでいたのでしょうか。
初めは境などから強制的に移住させられた商人が多く住んでいました。大阪城を築城するためには多くの人手が必要となったため、その人たちの住居もあったようです。
また、商人が多く住んでいて、船着き場から多くの品が入ってきたことから経済の中心地でもありました。
船宿、呉服店、料亭、両替商、金物屋などが立ち並ぶ大変にぎやかな街でした。
船場の人々が使う船場言葉は、江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁と見なされていました。
船場言葉は「かんにん(ごめん)」や、「おはようおかえり(いってらっしゃい)」、「いてさんじます(いってきます)」など、品の良い言い回しが多いのが特徴です。
これは、江戸時代以降、船場が「天下の台所」と呼ばれるほど商業都市として繫栄したためと言われています。さまざまな身分の客が訪れることから、丁寧な言い回しになっていきました。
公家の言葉の影響を強く受けており、生粋の公家言葉は、京都よりも船場に色濃く受け継がれたという説があるほどです。
船場が経済や商業の中心地で、古くから多くの人々が集まっていたことがお判りいただけたと思います。
現在の船場周辺も、多くの人々が行き交う地域となっています。
人が集まるところには物も集まります。
先祖代々お住まいの方も多く、多くの骨董品が眠っている町と言えます。
古くから船場にお住まいの方は、ご自宅を探してみると、思わぬ掘り出し物に出会えるかもしれません。
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船着き場があったことから、船場には日本のみならず、外国からの品もたくさん入ってきていたと考えられます。
船は大量の荷物を運べることから、利益も多かったと考えられます。船乗りの方や、船着き場で働く人々は、商人や大名、貴族などを相手にすることもあり、収入面でかなり恵まれていたのではないでしょうか。
船場には繊維を扱う店も多く、呉服屋もあったようです。現在も、その名残か、繊維問屋や呉服屋が多数入居しているビルがあります。
古布を扱っている店もあり、なかでもアンティークの着物は大変な人気です。現代風にアレンジした着こなしなどもSNSで話題となっているようです。
伝統的な着物を、本来の着付けとは違う着方をすることには賛否あるようですが、なかにはしっかりと着物の着付けを習ったうえで、普段使いしやすいようアレンジしている若者もいます。そこには、徐々に着物を着る人が少なくなっていく現状を少しでも変えていきたいという想いがあるようです。
船場ができた時代から人々の生活様式は大きく変化していきましたが、時代が違っても、人々の心は変わりません。
いつの時代でも愛されるような美しい着物などの古布や、民芸品、美術品などの骨董品もを求める人は途絶えることはないでしょう。
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この記事を書いた人
東京美術倶楽部 桃李会
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