江戸期刺繍
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楽吉左衛門は千家十職のひとつ、楽焼の茶碗を作る茶碗師の楽家が一子相伝を旨とした名跡になります。
楽家初代・長次郎は茶の湯を大成した千利休のもと赤楽茶碗や黒楽茶碗を作陶します。蹴轆轤を使わず手とヘラだけで成形する手捏ねと呼ばれる技法が特徴です。これは当時珍重された中国製の天目茶碗など均整の取れた椀を良とする発想から、侘び寂びの風情を千利休が好み長次郎に作陶させたことに起因しています。特に長次郎の作った楽茶碗は装飾性や中国古陶磁に見られた均等性、個性的な動きを可能な限りそぎ落とし、重厚な黒釉をかけ、千利休の求めた侘びの理想が最も強く反映しているといっても過言ではないでしょう。
楽長次郎の父は中国からの帰化人・阿米也(飴屋・飴也・あめや)といい中国南部の福建省あたりの出身とされております。楽焼の代名詞・黒釉と750℃から1000℃で焼成した軟質施釉陶器の技法はまさに父・阿米也がもたらした交趾焼・華南三彩の技法がベースで発展した技法と言えるでしょう。
長次郎の死後、妻の祖父・田中宗慶が豊臣秀吉より聚楽第の一文字「樂」の印を与えられ、楽家が始まります。宗慶とその長男・宗味が楽家を支えますが時代が豊臣家から徳川家に移っており、宗慶・宗味ともに秀吉と親しかったことを考慮し宗慶の次男・常慶が楽家二代目となります。この時はじめて楽吉左衛門と名乗るようになります。
楽家系譜
・初代・長次郎(不明-1589)
・二代吉左衛門・常慶(不明-1635)
長次郎亡き後、楽家当主として楽家の基礎を築き吉左衛門を名乗ります。初代・長次郎にはなかった沓茶碗など造形的に動きのある茶碗を作陶します。当時の嗜好、織部好みに合わせたものと思われます。また香炉釉と呼ばれる白釉を開発しました。本阿弥光悦との親交もあり光悦に楽茶碗の技法を伝授します。
・三代吉左衛門・道入(1599-1656)
常慶の長男、別名ノンコウ(ノンカウ)と称され楽歴代随一の名工と言われます。本阿弥光悦と深い親交があり、光悦の影響と思われる斬新な意匠が特徴です。
黒釉に白釉、透明釉を掛け合わせるなど伝統と加飾を融合させ初代・二代とは全く異なる表現を完成させました。
・四代吉左衛門・一入(1640-1696)
道入の長男、初代長次郎に根差す侘びを意識した作陶が特徴です。朱釉の技法を完成させます。
・五代吉左衛門・宗入(1664-1716)
雁金屋三右衛門の子で四代吉左衛門の婿養子となり五代吉左衛門を襲名します。雁金屋三右衛門は尾形光琳・尾形乾山の父・尾形宗謙の弟にあたります。尾形光琳・乾山は琳派を発展させ装飾性溢れる絵画や陶芸様式を完成させました。一方の宗入は初代・長次郎の作行きをより深めることに重きを置きます。カセ釉と呼ばれる地肌を思わせる粗い釉薬はまさに宗入の長次郎への実直なまでの傾倒さが伺えます。
・六代吉左衛門・左入(1685-1739)
大和屋嘉兵衛の次男で、五代吉左衛門の婿養子として六代を襲名します。左入二百と呼ばれる赤黒二百の碗は茶人・数寄人の間で珍重されました。
光悦写しなど楽家以外の作陶も学ぶことで独自の作行きを展開しました。
・七代吉左衛門・長入(1714-1770)
六代の長男として生まれます。茶道が町民文化にも浸透し、茶碗以外にも香合や花入などの作品を残しております。厚手で重厚な作行きは七代らしい作行きと評されております。
細工物の才に秀でており香合や置物は写実性豊かさが特徴と言えます。
・八代吉左衛門・得入(1745-1774)
長入の長男として生まれますが徳入は30歳の若さで病死してしまいます。もともと体が弱く父・長入の死後は家督を弟の了入に譲り隠居しました。その後も作陶を続け、父・長入を思わせる作品を残します。25回忌の時に得入を賜号され楽家の正史に入りました。
・九代吉左衛門・了入(1756-1834)
長入の次男として生まれます。兄・得入隠居後、楽家当代を継ぎます。了入は三代・道入以来の名工として誉れを得ました。14歳という若さで継いだことから作陶年数は歴代随一の65年という長さを誇ります。そのため年齢によって様々な作行きを見せるのが特徴です。特にへら使いは若い頃より研鑽を重ね晩年に近づくにつれまさに変幻自在の妙が感じられます。了入の追い求めた美しさはその後の楽茶碗への影響も大きく現代にもその息吹が見受けられます。
・十代吉左衛門・旦入(1795-1854)
九代の次男として生まれ、表千家九代・了々斎と共に紀州徳川家のもとで偕楽園窯や清寧軒窯を築き紀州藩茶道に貢献いたします。父・了入のへら削りを継承しつつ織部焼や伊賀焼、瀬戸焼などの技法や意匠を取り込み技巧的です。特に赤楽茶碗における、窯変による濃淡の変化は美しい景色となり十代を象徴する作行きと言えるでしょう。
・十一代吉左衛門・慶入(1817-1902)
丹波国南桑田郡千歳村(現在の京都府亀岡市千歳町)の酒造業・小川直八の子として生まれ十代・旦入の婿養子となり名跡を継ぎます。慶入の時代は江戸から明治への転換期であり、明治維新と文明開化により茶道自体が古き価値観として廃れた時期になります。それでもなお茶碗以外に香合や水指、振出など道具類も多く作り旧大名家や華族に納め茶道の維持と発展に尽力します。
中国明代の書家・董其昌など学び文人趣味にも精通し、教養に裏付けされた詩情的表現は高く評価されております。
なお小川長楽は十一代・慶入を師事し、のちに独立を許されます。
・十二代吉左衛門・弘入(1857-1932)
十一代の長男として生まれ、15歳で吉左衛門を継ぎます。若くして家督を継ぎますが時流が明治初期の文明開化という大転換期であり、茶道や茶道具が無価値とされた時代でありました。
弘入の落款には特徴があり数字の8に見えることから「8楽印」と呼ばれております。作行きは丸みを帯びた、ゆったりとした温和なものが多く、優しい味わいがあります。へら目も独特の波のような装飾的な跡を見せ楽しむことができます。
・十三代吉左衛門・惺入(1887-1944)
十二代の長男として生まれ、歴代屈指の研究家として知られております。楽家に伝わる釉薬や作陶技法を熱心に探求し、その研究結果を『茶道せゝらぎ』という雑誌を刊行し発表しました。
書画や漢文、和歌などにも精通し、織部や志野、唐津などの作陶技術も研究し自らの作品に活かそうと奮闘しました。自身が大変真面目な性格で、その実直さが表れた作品が残されております。
・十四代吉左衛門・覚入(1918-1980)
惺入の長男としてうまれ、1940年東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科を卒業後、第二次世界大戦に従軍することとなります。1945年に帰国するも前年に父・惺入が他界しており終戦直後ということもあり茶道低迷期を迎えておりました。昭和30年代に入り世の中が上向いてくるとともに作品も豊かになっていきました。
東京美術学校で学んだ彫刻の技術を生かし、それまでの楽茶碗とは一線を画す造形美溢れる作品を多く残します。形は一見すると変わらず伝統的なのですが立体的なへら削りや窯変による変化はモダンさを感じさせる鋭さと調和が見て取れます。
・十五代吉左衛門(1949-)
覚入の長男として生まれ、1973年東京芸術大学彫刻科卒業後イタリア留学し1981年十五代を襲名し現在に至ります。焼貫の技術を用い、彫刻的なへら使いで立体的且つ前衛的な作品を生み出しております。
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