江戸期刺繍
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インド更紗とは手描き彩色や木版・銅板の型彩色、また蝋防染などで世界中で愛されている木綿の染織品になります。
日本では「更紗」と書きますが江戸時代には佐羅紗・皿紗・佐羅左・紗羅染(しゃむろそめ)または印華布とも呼ばれておりました。更紗の発祥はインドであり、モヘンジョ・ダロの遺跡群からインド更紗の断片が発見されたことからもその歴史の深さを物語っております。
インド更紗(印度更紗)の魅力でもある最大の特徴はなんといっても鮮烈な茜色でしょう。植物性繊維質の木綿を自然染料で茜色に染める技術は、世界中でインドが最初であり最古で ありました。タンパク質を含まない植物繊維は赤系の染料が上手く染まらず日本でも木綿は主に藍染や茶色、緑が常でした。インドでは原産の茜を使い赤く染めるため、極めて化学的アプローチがされておりました。ミロバランの実から採取した液と水牛の乳の混合液を作りそこに木綿の布帛を浸けることで動物性に近づけ、赤くしたい文様にはアルミニウム塩を、黒くしたい部分には鉄塩を、紫色にしたいところにはアルミニウム塩と鉄塩の混合液をそれぞれ塗り、その後で茜の染料に浸けます。そうするとそれぞれが発色・定着し赤・黒・紫の文様が一回の工程で現れ、なにも塗られていないところは白く抜けるのです。ここに緑を加えたい時はミロバランを更に重ね、藍染めしたい際は蝋防した後に藍染をしました。文様は手描きや木製ブロック、版木が用いられ手作業の温もりと素朴さがあり世界中に輸出されました。
その最大の担い手はイギリス・オランダの東インド会社です。
16世紀の大航海時代、インド更紗(印度更紗)はまずポルトガル・スペインが重要な交易品としてヨーロッパ、ペルシア地方、そして日本へと渡ります。それは日本の桃山時代にあたり、ポルトガル船により長崎に伝えられ、それまで見たこともなかった鮮烈な赤と異国情緒のある文様はたちまち 大名や豪商、そして茶人など数寄人に珍重されました。
このようにインドから渡った更紗を古渡更紗と呼び、故に日本に渡ってきた更紗を「日本古渡更紗」といいます。同様にインドネシアに渡った更紗をインドネシア古渡更紗といい、その後それぞれ独自の更紗を考案していくことになります。 特にインドネシアは島国で、その各島で部族・風習が異なるため島々で文様が異なるのが非常に興味深い事例でしょう。一般的にジャワ更紗と呼ばれるものは茶褐色系が多いのですが 一方スマトラ島のものは鮮烈な赤に布帛の端に鋸歯文様が描かれた「スバギ」と呼ばれる更紗であり両者の対比は民俗学的にも面白い分野と言えるでしょう。
17世紀初めにイギリスとオランダがそれぞれ設立した東インド会社がポルトガル・スペインに代わりインド貿易を牛耳るようになると、今度はそれぞれの国から注文を受けインドで生産するという、いわば オーダーメイドのシステムを作り上げインド更紗(印度更紗)は最盛期を迎えることとなります。
当時インドの綿織物は世界最高峰であり、緯糸経糸を2:2でより合わせ1㎝に32組・64本の綿糸を平織する 技術は産業革命後紡績機ができ機械織が出てくるまでインド以外では実現不可能でした。江戸時代は唐桟留 と呼ばれる極上の縞織物もインドから輸入され豪商・武家・茶人の他、粋で生きる江戸町民に人気を博し大流行します。
またその様な絹のようなインド更紗(印度更紗)のほか、「鬼更紗」と呼ばれる太目の糸を手紡ぎし手織した粗くざっくりしたものも、その粗さがかえって茶人など数寄人に好まれたことも見逃せません。
しかしその後18世紀にもなるとまずオランダがイギリスにインドの権益を奪われ、イギリス国内では産業革命が起こり自国の綿製品が輸出対象となったためインドはイギリスへ綿花を供給するだけのプランテーションと化しインド国内の綿織物産業は一気に衰退していきます。第二次世界大戦後インドは独立するのですが工業化政策が推し進められ、インド国内の染織技術も一気に近代化されインダス文明より続く伝統的な手工業による精密な綿織物は衰えてしまいます。世界で愛され日本でも茶道と関係も深く、茶碗の仕覆や煙草入れなどにも用いられた精細な手工業製インド更紗(印度更紗)は少なくなってきており希少性の高い古布のひとつです。
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