江戸期刺繍
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歌川国芳は江戸時代後期から末期を代表する浮世絵師の一人です。
国芳は寛政9年(1798年)江戸日本橋本銀町一丁目(現在の東京都中央区日本橋本石町四丁目付近)の染物屋・柳屋に生まれます。
幼少期より絵を学び12歳の時に書いた「鍾馗提剣図」を初代歌川豊国に目に留まり文化8年(1811年)に15歳で歌川派の一門に入門します。
国芳の不運は兄弟子に歌川国貞という時代の寵児がいたことです。歌川国貞は若き時より美人画、役者絵、大首絵、挿絵といずれの作品も高い評価を受けたちまち稀代の人気浮世絵師となります。一方の国芳は浮世絵師としてデビューこそすれ、役者絵を描いても挿絵を描いてもなかなか売れませんでした。加えて歌川派の月謝も払うことができなくなり兄弟子であった歌川国直のところで居候をしていた逸話も残されております。
銀座の版元・川口屋正蔵や日本橋の版元・川口屋長蔵から役者絵を出しますが役者絵といえば師匠・豊国と兄弟子・国貞に勝つことはできず長きに渡り不遇の時代を過ごします。
国芳の風向きは文政10年(1827年)頃に発表した「通俗水滸伝豪傑百八人」で一変します。水滸伝シリーズの豪傑たち・武者たちをを刺青姿で描き、抜きん出た力強さと構成力で「武者絵の国芳」と称され絶賛されます。
こうして人気浮世絵師として花開いた国芳は、「東都名所」のような名所絵・風景画や美人画、役者絵、そして戯画の受注が増え、作品を多く残しております。
水滸伝は元々中国の物語ですが、それを曲亭馬琴が「傾城水滸伝」として翻訳しベストセラーになると、その商機を版元加賀屋が見逃さず国芳に水滸伝を描かせ、たちまち大ヒットするわけですからどの時代も力のあるアーティストには有能なプロデューサーが必要不可欠と感じます。
国芳の時代は奢侈禁止令が布かれ贅沢が制限された時代、この波は浮世絵表現にも影響を与えました。風紀を乱すという理由から人情本や艶本、春画は取り締りの対象となり絶版、役者絵や美人画も贅沢を助長すると禁止されます。生粋の江戸っ子だった国芳は江戸幕府に対する目一杯の反骨精神を浮世絵に込めました。天保14年(1843年)「源頼光公館土蜘作妖怪図」は当時の権力者を揶揄した皮肉をたっぷり込めた風刺画で江戸っ子は溜飲を下げ国芳はまさしくヒーローとなりました。
しかしその反骨精神は幕府の目に留まり、幾度となく奉行所から呼び出され尋問され罰金を取られ始末書まで書かされました。しかしそれが国芳の筆を更に達筆にさせ、次々と風刺画を世に出します。国芳の風刺画は飛ぶように売れ、当時最も売れた浮世絵師の一人となりました。
国芳は大判3枚続の錦絵もそれまでにないダイナミックな構図で見る者の想像を超える作品作りに没頭したと言えます。「宮本武蔵の巨鯨退治」や「相馬の古内裏」は今でも語られる国芳の代表作でしょう。そんな中、私は国芳の代表作に「忠臣蔵十一段目夜討之図」を推したいと思います。忠臣蔵のクライマックスでもある討ち入りのシーンを描いた作品ですが描かれているのは戦闘シーンではなく、静寂に包まれた月夜です。グレーを基調に西洋絵画のような表現で描かれております。これは当時国芳が西洋絵画の技法を取り入れようとしていた証左と言えます。ここには西洋の銅版画の影響があったのではないかと指摘されております。こうしたリアルに寄せた写実的な描写は当時の浮世絵としては異例で、まさに馴染みがなく、国芳といえどあまりに時代を先取りしすぎたのか、売れませんでした。
国芳は江戸っ子らしい任侠気のある親分肌、火事があればいつでも火消しに馳せ参ずる男気のよさでも知られており、国芳門下には70人以上の弟子がいたと言われております。
その門下には歌川芳虎、歌川芳艶、落合芳幾、歌川芳藤がおり、月岡芳年や河鍋暁斎も国芳に弟子入りし画業を学びました。
号を一勇斎、採芳舎、朝桜楼閣などとし、武者絵だけでなく寄せ絵や猫づくし、金魚づくしとそれまでにない発想力で見る者を楽しませたエンターテイナー歌川国芳は浦賀にペリーの黒船が来航した激動の時代に亡くなります。享年65歳、江戸という時代が終わろうとする中、もう一つの時代が終わった瞬間でした。
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