江戸期刺繍
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棟方志功は日本の版画家・画家であり近代美術における世界的巨匠の一人です。
1903年(明治36年)に青森県に十五人兄弟の三男として生まれます。豪雪地帯ということもあり、囲炉裏の煤で目を患い極度の近視となってしまいました。
少年の時より絵を描くことが得意で友人が紙を持って志功の元に訪れ役者絵を描いてもらい凧を作っていたというエピソードが残っているほどです。また青森県にはシャーマニズム・イタコ(巫女)の世界があり、志功の作品には目に見えないものへの敬意・畏怖が感じられます。
「わだばゴッホになる」
これは棟方が常に言っていた言葉で自伝のタイトルにさえなった有名なセリフです。雑誌『白樺』で紹介されたゴッホのひまわりを見て感銘を受け画家を志し21歳の時に上京し帝展を目指しますが落選が続いてしまいます。
棟方の転機は上京した翌年、たまたま出逢った一枚の版画にあります。それは川上澄生の「初夏の風」という作品でした。棟方はこの作品に強い感銘を受け、以降版画の制作にとりかかります。
1936年(昭和11年)の国画展に佐藤一英の「日本武尊(やまとたける)」をテーマにした叙事詩「大和し美し」を版画の形で発表し高く評価されます。
しかし当初は、この作品は四枚の額からなる大作であり国画会の展示室を独占しかねないと、会の委員は一枚のみの展示を主張し全作品の展示を拒否しました。当然棟方は四枚でなければ作品と言えずと反発し展示が危ぶまれました。そこへたまたま通りかかった浜田庄司が棟方の作品に感動し全作品展示できるよう取り計らってくれました。浜田庄司とは民芸運動を代表する陶芸家で、この出会いが縁となり棟方は民芸運動の祖・柳宗悦や河井寛次郎らと交遊することとなります。
それにしましても4枚の額といいますが、全20枚の版画を4枚の額に収めた大作であり、それはある意味棟方のエゴイズムの証左とも言えるエピソードにも思えます。
志功の仏教的思考は河井寛次郎のよるところが大きいでしょう。当時の棟方は「帝展に入賞したい」「認められたい」という我欲に囚われていたと言われております。その時に河井寛次郎は『碧巌録』などから禅の心を説きます。何物にも囚われない、無一物の境地こそ棟方に必要な心と、帝展に落ちた棟方に対し寛次郎は「落選おめでとう」と電報を打ったという逸話が残されております。
そうして生み出されたのが「華厳譜」や「二菩薩釈迦十大弟子」といった独特なリズムと表現の作品になります。
戦前の棟方作品が力強い線と白・黒のコントラストで表現された世界観であるならば、戦後の棟方作品は一転、彩色豊かで生命力に満ち溢れたフェミニズムと女性崇拝とエロティシズムと言えるでしょう。志功は自らの版画を「板画」と呼びました。一方で自身の肉筆画を「倭画」と命じました。戦後の棟方作品は板画・倭画ともに棟方志功とわかる作行きであり、そこには常に女性の持つ母性と幼さを礼拝したフェミニズムとエロティシズムを感じさせます。
1952年(昭和27年)スイス・ルガノ国際版画展において「女人観世音板画巻」の最優秀賞受賞を皮切りに1955年(昭和30年)「二菩薩釈迦十大弟子」がサンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞、翌年のヴェネツィア・ビエンナーレでグランプリの国際版画大賞を受賞するに至ります。それはまさに世界のムナカタの誕生の瞬間でした。
棟方の作品は絵画であり版画であり詩でもあり書でもあります。それらはひとつとしてバラバラに主張することなくまとまりを感じさせます。そこにあるのは神羅万象目に見えない何かに対する敬意と畏怖、生命に対する祈りだったのかもしれません。
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