お香の起源
お香の起源は現在にタジキスタン、アフガニスタン、中国にまたがるパミール高原に発するといわれております。
そしてその後インドに伝わりました。まず酷暑の気候による悪臭を防ぐためにもお香は大変重要な役割を果たします。
さらに紀元前5世紀後半には仏陀(ガウタマ・シッダールタ)による仏教が始まり、修行の中で焼香としての「香」が盛んに奨められることとなります。仏教ではお香を焚くと不浄を払い心識を清浄にするとされており、仏前で香を焚き、花や灯明とともに仏前に供することを供養の基本としております。
そんなお香の文化は仏教の布教とともに中国を含め各地へ伝わっていきました。
日本も例外ではなく仏教伝来し様々な仏教儀礼とともにお香もまた中国から伝えられたとされております。
『日本書紀』に“推古3年(595年)の夏4月、淡路島にひとかかえもある大きな沈水(ちんすい)香木が漂着し、島の人はただの流木だと思い、かまどに入れて他の薪とともに燃やしたところその煙が遠くまで素晴らしく薫り、これを不思議なことと思った島人はこの流木を朝廷に献上した”と記されており、これがお香に関する最古の記録になります。
そして更にこの話には続きがあります。
このことは聖徳太子の目に触れることとなり、聖徳太子はすぐにその流木を「沈香木(ジンコウボク)」と見抜いたとされております。
西暦595年に淡路島に流れ着いた香木は、朝廷に献上されたのち、聖徳太子が観音像をつくったと云われております。
淡路島の海岸沿いの枯木神社では、その香木をご神体として大切に祀ることにより今に太古の伝説を繋いでおります。
お香の歴史
奈良時代になりますと遣唐使により中国の僧侶「鑑真和上」が来朝します。
鑑真により授戒、建築、薬草などそれまでの日本になかった多くのものがもたらされました。
その中に薬品や香料という項目があり、持ち込んだ薬草や香原料の調合技術を伝えます。さまざまな香薬と焼香などの合香術により、それまでは単体で使われていたお香がいくつもの香りを合わせて仏前で薫かれるようになりました。
さらに奈良時代では、魔除けや厄除け、防虫など実用的な目的でもお香が使われるようになっていきます。
着物や衣装の防虫のために箪笥に入れて香りを楽しんだりする香袋(匂い袋)というものがございますが、奈良時代に建立された東大寺正倉院には日本最古の香袋が収蔵されています。
平安時代では仏教との結びつきが強かった奈良時代のお香とはうって変わって、日常生活のためのお香として貴族・公家社会の中に取り込まれて参ります。平安時代では丸薬状の形のお香・練香が発展するようになります。
平安貴族の間では自ら香りを調合し、自分だけの香りを作ることが流行します。そして伏籠などを用いて自らの衣に薫き染め、香りを身に纏いながら生活をしたとされております。
衣服に香りを薫き染めることを「薫衣香(くのえこう)」、部屋に香りを漂わせることを「空薫(そらだき)」と呼びます。
さらに平安貴族らは自らが作ったお香の優劣を競う「薫物合(たきものあわせ)」と呼ばれる遊びを盛んに行うようになります。この遊びを源として現代にも伝わる薫物「六種の薫物」が誕生したとされております。
鎌倉時代では貴族の時代は終わり、武士が権力の中枢となります。
平安時代に誕生した武士は当初貴族に逆らうほどの力がありませんでしたが10世紀半ばごろに大きな武士の反乱が起き、その反乱を抑えたのも武士の力でした。
それらの反乱を抑えた武士はそれぞれ源氏と平家の祖となりその後の武士社会の礎となります。
鎌倉時代には多くの仏教宗派が生まれた時代です。浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗は鎌倉仏教と呼ばれております。
その中で武士とのつながりが強かった宗派が禅宗となります。
鎌倉時代に日本にやってきた禅宗は武家と深く関わり、後の武士の精神を養う精神的支柱の一つになりました。
禅は自らの鍛錬によって心を鍛えるという教えのであり、質実剛健で独立心が旺盛だった新興の武士勢力の気風にマッチしたのでしょう。ここに武士と禅の結び付きが生まれました。
禅においてお香は大変重要な意味合いを持ちます。例えば座禅の時間を図る手段としてお香の燃焼時間がその目安として使われたと云われております
そういった禅宗の影響もあり、武士の間でもお香の世界が広がっていきます。
優雅な貴族社会から武家社会へと移行しますと、平安貴族たちが嗜んだ自ら香料を調合し複雑な香りにすることに代わり、香木を焚くだけの「一木(いちぼく)の香り」が好まれるようになります。
室町時代は武家社会を踏襲しつつ新たに文化へと変貌する時代でもありました。
中でも8代将軍・足利義政の時代では文芸・芸術・建築など多くの文化が庇護されそれぞれが大いに発展した時代として知られております。
お香の文化もそのうちにひとつです。
鎌倉時代の末から室町時代中期にかけて、香木の香りを聞き分ける「闘香(とうこう)」という遊びが公家・武家・裕福な民衆の間で流行していました。この頃は「闘茶」など差を見分ける遊びが流行りお香のその流れで香りの嗅ぎ分けがされるようになりました。
このことが現在の香道で行われている「聞香(もんこう)」や「組香(くみこう)」の下地になったと考えられております。
また室町時代後期になりますと後期になると現在の香道に深く関わる人物、三条西実隆と志野宗信が登場します。
三条西実隆は「御家流(おいえりゅう)」の流祖として知られる人物です。
三条西実隆は室町幕府八代将軍足利義政や11代将軍足利義澄、若狭国守護・武田元信等と親交があったほか、文化人としての交流関係も多岐に亘り、一条兼良と共に和歌・古典の貴族文化を保持・発展させたことで有名です。
御家流(おいえりゅう)は室町時代に創始されて以来、大臣家である三条西家によって継承されましたが、後に亜流は地下(武士・町人)にも流れました。
そして志野宗信は「志野流」の流祖です。
志野宗信は足利将軍家
6代足利義教
から8代足利義政まで仕えた同朋衆となります。
志野流は、初代宗信からの志野流の精神を一度も途切れることなく当代家元・幽光斎宗玄まで継承しております。
幕末の戦乱に巻き込まれ、特に禁門の変では家屋を消失してしまい家元存続の危機もありましたが、尾張徳川家を中心に、尾張地方の名士たちがパトロンとなり流儀は守られました。そのため現在では志野流家元は、愛知県尾張(名古屋城近く)に居を構えております。
志野流における「入門」は、その伝統・道程を守るため一子相伝の制度をとっており、家元と共に志野流香道の精神と伝統を生涯に亘り守り続けることを誓約した者のみが許されます。古くは血判の誓約書を家元に提出していたそうです。
従って、志野流香道で学んだ伝統、秘伝、及び作法等に関する知識、技能は他言してはならない決まりとなっております。
こういった厳密な関係が武家社会では重んじられ、志野流は香道における主流派となります。
もともとは仏教の教えが伝来したことにより伝わったお香の文化ですが、時代によってその意味合いが異なるのがわかります。
邪気や不浄なものを祓うためのお香が平安時代では貴族の遊びの文化となり、鎌倉時代以降の武家社会では禅との結びつきにより自らの修行・修練の一貫となったことは大変興味深いです。
これからも日本独自の文化として伝統と精神性を重んじ継承されていくことでしょう。
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