江戸期刺繍
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津田信夫(つだ しのぶ、1875-1946年)は、明治から昭和時代に活躍した日本を代表する鋳金工芸作家になります。1875年(明治8年)10月23日千葉県佐倉で佐倉藩医を務める父・津田長人の長男として生まれます。
1895年(明治28年)東京美術学校に入学、1900年(明治33年)に同校校鋳金科を卒業します。
卒業から2年後の1902年(明治35年)同校助教授として務め、のち1919年(大正8年)に教授となりました。
東京美術学校が公共事業として注文を受けた浅草公園(現在は浅草寺のお水舎に移築)や日比谷公園の噴水、日本橋の装飾、国会議事堂の扉装飾など公共施設の金工品を多く手掛け、近代的な都市づくりに貢献したことが高く評価されます。
それらの功績が認められ1923年(大正23年)文部省から在学留学の指示を受け、当時ヨーロッパで流行していた装飾様式であるアール・デコなどを学ぶためヨーロッパへ向かいます。その留学中の1925年(大正14年)にはパリ万国現代装飾美術工芸博覧会(現代装飾美術・産業美術国際博覧会、通称アール・デコ博)の日本代表審査員を務めます。
1927年(昭和2年)には国主催の美術展覧会である帝国美術院展覧会(現在の日展)における工芸部門の設置に尽力し、自ら審査員を務めることもありました。その後1935年(昭和10年)に帝国美術院会員、1937年(昭和12年)に芸術院会員に推されます。
フランスと日本の文化交流への功績からオフィシャー・デ・アカデミー勲章、オフィシャー・エトワール・ノアール勲章をフランス政府から、勲四等瑞宝章を日本政府からそれぞれ贈られ国内外で知られる金工家となります。
1946年(昭和21年)2月17日自宅にて心臓麻痺で死去、没72歳となります。
1875年 千葉県佐倉藩藩医の家に生まれる
1895年 東京美術学校入学、鋳金を学ぶ
1900年 東京美術学校鋳金科卒業
1902年 東京美術学校鋳金科助教授
1919年 東京美術学校鋳金科教授
1923年 ヨーロッパ各国に留学、アール・デコなどヨーロッパで流行していた装飾様式を学ぶ
1925年 帰国
1927年 帝展工芸部門設立に尽力
1928年 フランス政府よりオフィシャー・デ・アカデミー勲章授与
1933年 フランス政府よりオフィシャー・エトワール・ノアール勲章授与
1944年 日本政府より勲四等瑞宝章授与、正四位に叙せられる
1946年 自宅にて心臓麻痺で死去(享年72歳)
残念ながら津田信夫は自身の考えを記した自伝や論文など残しておりません。しかし当時の一番弟子であり芸術院会員・人間国宝に認定された高村豊周は自叙伝『自画像』のなかでこう記しておりました。
「津田先生がフランスから帰って来た。そしてヨ-ロッパの新しい工芸の息吹と、また生活と工芸との緊密な関係を私たちに吹き込んだのである。
『日本の工芸界は今頃こんな愚図々々していてはとても駄目だ。世界の趨勢について行けない。ここで君たちがしっかりしなければ、やって行ける人は他にいないではないか。今が一番肝心なときだということを忘れては駄目だぞ』
私たちは興奮した。それから度々津田先生の家へ押しかけては、ヨ-ロッパの話を聞くのがとても楽しみとなった。皆じっとしてはいられなくなってしまう。もっとどしどし新しい現代の工芸をやって、未来の道を自分たちの力で切り開かなければ駄目だという気持ちで一杯になった。先生の所へよく集まった者は、杉田禾堂・北原千鹿・佐々木象堂・山本安曇と私の五人だった」
「津田先生は帰朝されると、私たち若い仲間に新しい工芸運動の灯をともしたのと同時に、帝展に工芸部門を加える運動にかかった。津田先生は、工芸が今の古い立場を墨守しておれば、日本の工芸は世界の工芸に立ちおくれてしまうから、今のうちにその基礎を固めておく必要がある。それにはまず工芸を帝展に入れて、工芸そのものの地位を固めなければならないと考えた」
明治期の万国博覧会では「日本的」つまり欧米におけるジャポニズム嗜好が受け輸出品の紹介としての意味合いがありました。しかし日本の超絶技巧は美術品と言うより職人芸による工芸品という見方が強く欧米での人気が衰えていきます。
パリ万国装飾美術工芸博覧会での敗北はまさにそのことを意味します。
帰国した津田は新しい工芸を作ろうと尽力しますが当時の風当たりは強かったようです。
伝統を重視する作家と、構成主義と呼ばれた新しい工芸理念を掲げていた若い作家の間で主張の隔たりが大きくなり、多く伝統工芸家から新しい工芸の急先鋒であった津田信夫に対して多くの批判が噴出します。
そんな中1929年(昭和4年911月号「アトリヱ」にて『津田信夫論』と題された特集が組まれ津田を擁護する論文が掲載されます。
「津田さんは決して新傾向の先頭に立つ程新しくはない。僕は寧ろ津田氏の慚新性を歯がゆくさへおもってゐる。然し審査員其他の諸氏は古典主義の人が多いので、津田さんも自分の立場は主張するが、以何にせん、数に於いては敵せず、文字通り孤軍奮闘しているのだ、津田信夫氏は工芸界を今日あらしめた恩人の一人である」
「氏を以て工芸界の赤化頭目と看傲し、我国固有の芸術を破壊する西洋かぶれの反逆者の如く思惟する老大家もある様だが余りにも氏を知らない皮想の観察である。それ等の人達こそ今も天平藤原より一歩も出ない偏頗な頭の持主で我国工芸の進展を阻害する事の深甚なるを思はしめる、基督教を邪宗と断じ洋画を西洋の模倣畫であるとする輩に等しい。私に言はしむれば氏は頑強なる古典礼讃者である、我国固有の芸術を尊敬し其発揚を忘れない事は決して人後に落ちないが然も其反面は常に注意深く社会の動き、生活の変遷、思想の動揺を凝視してそれ等の為に必然的に來る工芸作品の変化を見過ごすまいとして居る人である」
「氏のとなえる工芸の主張は普通あの年齢としてはあまりにも若々しい。工芸の上層を流るる老大家の空気といふものはいつも若者と縁遠い古典の色彩で染めらるる。又普通はそれでよいのである、年齢に依りてその作風を限定するのが伝統の公式である。但し氏の場合はどうしても此の公式は当嵌まらぬ、ここでいつも問題が湧く、やれ氏はあまりにも過激派だ、革命派だと。いつの間にやら氏自身は工芸左黨扱ひされるに至った。工芸に於ける構成主義の理解者はまだ日本には少ない。恐らく氏はこの唯一の味方であろう。唯氏の構成主義賛美は欧州鵜呑みではないであろう。弁慶縞の中にもこれを認め、日本障子の組合わせの中にも此の美を探しあてる人であるから」
いずれも津田を高く評価する若い工芸作家による援護射撃です。その後戦争の拡大と共に日本美術界や工芸界は衰退し国威高揚に利用されます。津田は終戦を迎えた翌年の1946年(昭和21年)に亡くなります。これから戦後復興という矢先に亡くなり日本工芸の復興も見ることがかないませんでした。
しかし津田の遺した工芸における生活と美術に両立は今なお受け継がれていると思われます。
この記事を書いた人
東京美術倶楽部 桃李会
集芳会 桃椀会 所属
丹下 健(Tange Ken)
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