江戸期刺繍
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盛秀太郎は津軽系こけしの工人で明治28年に青森県南津軽郡(現在の青森県黒石市)にて生まれます。青森県黒石の温湯温泉を代表する木地職人であり、氏の作るねぶた絵やアイヌ模様を取り込んだ色彩豊かなこけしは戦前、戦後を問わずこけしコレクターの間では垂涎の的と言えましょう。
青森出身の天才版画家・棟方志功と親交があり、秀太郎のこけしは棟方に「津軽美人の原点、日本一のこけし」と賞され全国に名を知られることとなり昭和47年には東京の小田急百貨店で「盛秀太郎喜寿記念展」が開催され昭和53年には伝統こけし功労者として勲六等瑞宝章を受章しました。
通称「盛秀」の愛称で日本中のこけしコレクターから愛され、昭和61年92歳で惜しまれつつお亡くなりになりました。
盛秀太郎のこけしは戦前のこけしブームの立役者・天江富弥『こけし這子の話』にてその作風が紹介されております。大正期の盛秀のこけしは鯨目と呼ばれる垂れ目、昭和初期は上瞼と眼点のみとどちらも非常に素朴で味わい深いものでした。この頃の盛秀のこけしはグルーミィ(陰鬱な気分)の表情と言われ、その表情が津軽の風土が生んだ表情とされ高く評価されました。
盛秀型こけしとして最もポピュラーな達磨模様に目を黒く塗り潰した長まつ毛に困ったような眉毛をした表情がありますがこれは戦後に生み出された表情です。
戦前の素朴さと戦後の明るい奇抜さ、この表情の変化の振り幅はおそらく伝統こけし工人の中でも五本の指に入るでしょう。
また極めて達筆であったことも人気の理由のひとつで、注文を受けた際の返礼の手紙は軽やかな草書体で書かれ、この手紙が欲しくて注文するこけし蒐集家さえいたようです。
盛秀太郎が亡くなった後も盛秀型こけしは弟子の奥瀬鉄則、佐藤善二、そして孫の盛美津男に引き継がれ、今もこけしコレクターに愛され続けております。
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