江戸期刺繍
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歌川国貞は江戸時代末期の浮世絵師で、のちの三代目歌川豊国です。
1786年(天明6年)に江戸の材木問屋生まれます。15,6歳で初代歌川豊国の門下に入ると1807年(文化4年)22歳の頃に美人画でデビューすると瞬く間に浮世絵界のトップへと躍り出ます。
号を五渡亭・香蝶楼・一雄斎・琴雷舎・北梅戸・富望山人・富望庵・桃樹園・応好・月波楼・喜翁・国貞舎豊国・雛獅豊国・浮世又平・不器用又平など数多くあることで知られておりますが、特に狂歌師・大田南畝が名付けたと言われている五渡亭は浮世絵師として世に出た頃より1843年(天保14年)と30年以上は用いており歌川国貞作品の中で最もよく見る号と言ってもよいでしょう。
また英一蝶を尊敬し一蝶の「蝶」の字と一蝶の名・信香より「香」を取った号「香蝶楼」や、英一珪に師事し英一螮(いつたい)という号も使用しております。
歌川国貞は79歳で亡くなるまでの間に浮世絵師随一の作品数を残しており、その数は数万枚を超えると言われております。歌川国芳や歌川広重といった人気浮世絵師を抑えての人気・売上NO1の浮世絵師であり、その役割はまさに現代のマスメディア、江戸で人気の歌舞伎の演目や役者絵、吉原の遊女などの美人画、艶本・春画の挿絵と世に送り出し続けました。
歌川国貞は特徴は俗に「面長猪首の美人画」と言われておりますが、江戸時代では受け口が色っぽさ・妖艶さの象徴とされており国貞の絵にもよく見られます。余談ですが江戸末期の退廃的遊女の美人画や春画を描かせたら渓斎英泉がまず挙げられますが、国貞はその英泉に学び同様に退廃的な美人画を習得するというある意味、画業に対するどん欲さは歌川国貞という人物の一端が垣間見える逸話ではないでしょうか。
そして歌川国貞を語る上で避けることができない事件が豊国襲名でしょう。
初代歌川豊国死去後、二代目を名乗ったのは初代豊国の養子・歌川国重(豊重)でした。歌川派は浮世絵界の最大派閥です、「一たび豊国の号を継ぎしが物議の為め再び元の国重に復す」という一文が『狂歌人名辞書』という書に記されていることからも伺えるように国重の二代目豊国襲名は少なからず認められてはいなかったようです。人気・実力・そして国重の兄弟子でもある国貞が二代目を襲名することは世間以上に国貞本人も自覚していたと思われ、自らを「二代目豊国」と称し国重の二代目襲名を無視します。同時代に二代目豊国が二人いたことになり、国重が本郷に住んでいたこともあり「本郷豊国」と称され区別されたようです。(ですがやはり国重は歌川派一門からの襲名が認められることはなく画業を廃業し本郷で陶器商お営んだとされております。)
ただ現在では国重を「二代目豊国」とし国貞を「三代目豊国」と呼ぶほうが一般的です。
豊国を襲名してからも画業に明け暮れ、特に役者絵への小熱は晩年まで衰えず版元・恵比寿屋庄七のもと、大首絵を数多く手掛けております。
国貞の描く和装小物や着物の文様・様式は浮世絵を通して当時の「今」を描いており江戸時代の風俗を知るうえで大変貴重な資料的価値も含まれております。人が生活していた江戸を一番よく描いたのは国芳でも広重でもなく歌川国貞だったのではないでしょうか。
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