江戸期刺繍
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金城次郎は1912年(大正元年)に沖縄県那覇市与儀にて生まれます。
1925年(大正12年)に新垣栄徳の製陶所に見習い陶工として入門するしたのが12歳のころ、しかしながら雑用や使い走りのような下働きしかさせてもらえず轆轤を蹴らせてもらえたのは17歳のころと言われております。
金城次郎を知るうえで重要なことはこの時に浜田庄司と出会い、民芸(民藝)の思想に触れ感化されたことでしょう。
当時壺屋の名工と謳われた新垣栄徳は戦前沖縄を訪れた浜田庄司らに壺屋焼の伝統的手法を紹介し、民芸運動(民藝運動)に大きな影響を与えました。それと同時に若き金城次郎にとって浜田庄司ほか柳宗悦や河井寛次郎といった民芸運動(民藝運動)の重鎮との出会いが戦後に才能を開花させる礎となっていることは疑いようがございません。
特に浜田庄司との交遊は深く、浜田が壺屋を訪れる度に手伝っていたのは金城次郎です。浜田庄司は民芸作家らしく、本土のものは真似せず沖縄独自の焼き物を作るように金城次郎に言っていたそうです。
1946年(昭和21年)34歳の時壺屋に独立し工房を開きます。工房と言っても米軍払い下げのかまぼこ形兵舎で、窯も新垣栄徳の登り窯を借用しており決して恵まれた環境での独立ではありませんでした。しかしそれでも沖縄の風土が生み出した壺屋焼を次々と発表していきます。
その技法は鳶鉋・三島手・刷毛目・指掻・染付・赤絵と中国や朝鮮、そして東南アジアなどを彷彿させる技法で、河井寛次郎が「彫ったり描いたりする模様も上手く陶芸の仕事でできないものはない」と称賛するほどです。
沖縄は海との関わりが深く金城次郎の作品にも沖縄ならではの海の生物が多く見られます。その中でも金城次郎の代名詞といえば魚文と海老文でしょう。
線彫による魚文は豊かな自然と生命の躍動感を感じさせます。その感情豊かな魚や海老の表情は浜田庄司に「金城以外に魚や海老を笑わすことはできない」と絶賛されたと言われております。
1951年(昭和26年)戦後窮乏していた壺屋焼を救うべく浜田庄司ら民芸関係者の尽力により第1回琉球民藝展を日本民藝協会主催で開催、そこに出品します。
その後同じ壺屋の陶工、新垣栄三郎と小橋川永昌と共に沖縄美術展覧会・工芸部門に出品し高い評価を受けました(金城次郎・新垣栄三郎・小橋川永昌は「壺屋三人男」と呼ばれその後の壺屋焼発展に大きく貢献していきます)
この頃は益子や龍門司などの民窯を訪れ民芸を学ぶとともに自身は1955年(昭和30年)に国展に初入選、翌年には同じく国展において新人賞を受賞するなど壺屋焼の陶工として頭角を現していきます。
この頃から那覇市の都市開発と壺屋の登り窯から出る煙が公害として問題視されると読谷村字座喜味に移り、そこで初めて自らの登り窯を開くことになりました。
1972年(昭和47年)には沖縄県指定無形文化財技能保持者に認定されるなど華々しい功績に支えられ、また沖縄本土復帰と観光ブームにより壺屋焼と金城次郎の作品はそれまで以上に人気を博することとなり1977年(昭和52年)には「現代の名工」に認定され当時の労働大臣より表彰を受けました。
1978年(昭和53年)脳血栓で倒れますが約4カ月の療養ののちまだ手足の麻痺があるにも関わらず復帰するというバイタリティー溢れる逸話も残されており、人間・金城次郎の深み・職人としての生き方を感じます。
そして1981年(昭和56年)勲六等瑞宝章を受章すると1985年(昭和60年)国の重要無形文化「琉球陶器」技術保持者として沖縄県で初の人間国宝に認定されることとなりました。
金城次郎は自身の作品について「日用品として使ってくれるのが嬉しい」とおっしゃったそうです。やちむんの原点は日用品、「用の美」です。民芸ブームと人間国宝認定によりなかなか日用雑器として金城次郎の作品を使うのは躊躇する価格ではありますが根底に流れる民芸作家でありたいという素直な気持ちを言葉にしたものだと思います。
金城次郎の意志は長女・宮城須美子や長男・金城敏男、次男金城敏昭、そして孫の宮城三成や金城吉彦・金城吉広、金城裕三ら一門に今も受け継がれております。
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