江戸期刺繍
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岩本芳蔵は明治45年栃木県鹿沼にて岩本善吉の次男として生まれます。もっとも芳蔵が生まれた時、父・善吉は田舎芝居一座におり生計を立てていたため行方が知れずでしたが(苦笑)
系統的には土湯系に属しますが、岩本芳蔵は父でもあり師でもある岩本善吉が生み出した「たこ坊主」を世間に認知させた立役者と言えます。
小学校を卒業後、父・善吉を師事し木地の修行を開始し盆や茶壺を挽きました。
しかし二人はなかなか壮絶な師弟関係であったようです。
16歳の時、仕上げを善吉に見てもらった際「もう少し削れ」と言われ削ると穴が開いてしまい、すると父・善吉は「音で分からんのか」と激高しウシ(鉋のこと)で頭を殴られます…時代が違うとしか言いようのない親子・徒弟関係のエピソードですね(震え声)
しかしさすがにこの時は芳蔵も家出をし、一晩中飲んで遊んで騒いでと、まさに父親譲りの暴れっぷりを見せます。翌日フラフラしながら帰宅すると荷物がまとめられており、そのまま東京へ職人修行に出されます。
その後箱根湯本の小川工場でけん玉を1日550個挽く(通常の職人は1日400個が限界)など修行を続け、17歳の時中ノ沢に戻るも父・善吉に「絵の具のことを覚えてこなかった」と追い返され、21歳の時再び中ノ沢に戻ってくるも「(日焼けもしてない)白い手の木地屋には家の敷居を跨がせない」と事あるごとに追い返され暫く土方や営林署の仕事に従事した後、かつて父もいた磯谷の工場で雇われるもソリが合わずケンカをして工場を飛び出し父の元へ戻ります。まさに三度目の正直となりますが、もちろん三度善吉から「跨ぐなと言ったのに何故そこにいる?」と詰問されます。すると芳蔵は「足を揃えてピョンと飛んで入ったので跨いではおりません!」と答え善吉は笑って許したという父子エピソードが残されております。
この親子はあまりに父子のエピソードが多すぎて大変なのですが、殊にこけしのエピソードと言えば岩本善吉は「人の物を絶対真似しない」という信条を息子であり弟子でもある芳蔵にも強いたことでしょう。通常ですと弟子は師匠の作を踏襲し技量を高めますが、善吉がそれを許さず芳蔵に自分独自のこけしを作るよう厳しく言いつけ、善吉型こけしを作ることを禁止します。
芳蔵が善吉の元でこけし作りを始めて1年後、昭和9年岩本善吉は心臓病により56歳で亡くなります。芳蔵23歳の時でした。完全に道を失いかけますが、酒井正進・本多信夫・安藤良弘など中ノ沢の工人の木地下を挽くことで生計を立てました。
戦後になり、昭和30年代からの第二次こけしブームが訪れると、こけし蒐集家として有名だった小野洸の勧めもあり善吉型こけしの復元を行い、これを機に「たこ坊主」が広く認知され始め、たこ坊主は戦後こけし業界の一大ムーブメントとなります。弟子入りする工人は増え、荒川洋一や三瓶春男、柿崎文雄、渡辺長一郎、斎藤徳寿、福地芳雄といった多くの工人が「たこ坊主」を作るようになると昭和46年に「たこ坊主会」が結成され都内百貨店などで実演販売依頼が来るまでの産業となりました。
昭和48年、62歳でその生涯を閉じた芳蔵ですが、時代の需要とは言え父・善吉の教えを破る形で善吉型こけしを復元した時の心情はどんなものだったのでしょうね。
もちろん良い蔵が復元を決断したことによりたこ坊主は生き続けることができた様式なことは疑いようのない功績ではありますが、あの父子関係を鑑みると絶対ウシ(鉋のこと)で頭を殴られる案件なことも疑いようがございません(確信)
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