江戸期刺繍
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岩本善吉は土湯系こけしの工人で、明治10年栃木県宇都宮の呉服屋の次男として生まれました。
善吉の人生は破天荒そのもので、ある意味「たこ坊主」の祖としては納得するところでもあります。
幼児期に親戚の芸妓屋の養子となり18歳まで各種遊芸に熱中するも、長男が亡くなると実家に呼び戻されます。25歳で家を出るまで放蕩の限りを尽くし付いた二つ名が「宇都宮の小天狗」、選挙運動では反対派の暴力団に襲われ竹槍で刺される、出初式のハシゴから落ちる、等々の逸話があり体には48の傷痕があったとまるで某マンガの北斗七星の傷痕のような伝説まで生まれました。しかし後に善吉の息子であり弟子でもある岩本芳蔵の弟子・斎藤徳寿の研究により善吉の逸話にはかなりのフィクションが含まれており、本人がかなり盛った可能性が濃厚のようです。
25歳に家を出て東京浅草で木工旋盤を習得し栃木県鹿沼に移ると紡績管を挽いて大いに財を成し山を買うまでに至ったが不況になると事業不振となり、善吉は田舎芝居の一座に身を寄せ芸者に踊りを教えるなどをして生計を立てたと言われております。結婚と離婚を繰り返し8人目の妻シゲとの間に四男六女をもうけ、その次男が岩本芳蔵です(ちなみに芳蔵が生まれた時は善吉は行方しれずという状況でした)
家族をおいて一人で移り住むことに抵抗がなかったようで、大正11年には芳蔵ら家族を喜多方に残し磯谷茂という人物の山市商店で雇われ単身で中ノ沢に移り住みます。中ノ沢には海谷七三郎、磯谷直行がおり木地の指導を受けます。生活は相変わらずのメチャクチャっぷりで家族への仕送りも気分次第とままならず息子・芳蔵が喜多方から取りに来ることも少なくなかったようです。仕事も軌道に乗ったのか翌年には家族を喜多方より中ノ沢に呼び寄せます。
中ノ沢で有名なたこ坊主のこけしが生まれる背景にはとんでもない人のとんでもないエピソードがあったのですね(確信)
岩本善吉は当時中ノ沢に持ち込まれていた土湯系こけしをベースに海谷七三郎の描く菊を真似ていたそうですが上手くいかず、福島県須賀川の牡丹園からインスピレーションを受け牡丹を描くようになったと言われておりますが、ここにも「牡丹のインスピレーションは刺青から得た」と善吉らしい一説もあるようです。何はともあれ、善吉はこけし作りには相当熱心に取り組みながらも人の作品の真似事は嫌い見て学ぶ、見取り学問で土湯系こけしの基本的な造形の中に独自の様式を盛り込んでいき、次第に評価を高めていきました。中ノ沢での奇行も健在で芝居や踊りが上手く酒の席での人気も高く、中でも「逆さカッポレ」と呼ばれる三点倒立のような格好で逆さまになり股間の張子の面を挟んで行う足踊りはもはや名人芸といわれ名物化しておりました。そしてその時の張子の面こそ「たこ坊主」の原型と言われております。
こけし夢名会の発起人の一人、鹿間時夫は善吉について「善吉の創作力の陰には身に沁みついた放蕩三昧の芸、人間味、おどけたピエロの甘悲しい芸人根性が宿っていた」と著書に記しており、ある種、魂のこけし工人とも言えるのではないでしょうか。「人の作品を真似しない」は自身のみならず息子の芳蔵にも徹底され、芳蔵に善吉型こけしの踏襲を許しませんでした。徹底した個の工人、それが岩本善吉だったのかもしれません。
たこ坊主はグロテスクと称されることが多いこけしですが、その表情はグロテスクというよりも悲哀と哀愁、刹那に生きた善吉の表情に思えてなりません。
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